1857年日本が開国か攘夷か騒然としている幕末の頃、アメリカのシンシナテイでロバート・ブラムという一人の男の子が誕生。彼にとっての日本との出会いは16歳の時でした。道ばたで売っていた日本の扇を買い感動を覚え、この絵の好きな少年は次第に日本への関心を高めていくのです。
1876年19歳になったブラムは「フィラデルフィア万博」で日本文化に衝撃を受け、いつかその地を踏むことを夢に抱きます。そして、14年後の1890年、ブラムが33歳の時についに日本に行くチャンスが訪れます。上野で開催された「第三回・国内勧業博覧会」に招待されたことを機に、その後2年半に渡り、彼の目を奪った江戸の香りが色濃く残る日本を描き続けることになります。
その作品の世界に、私のみならず誰しもが新鮮な感動を覚えることでしょう。
アメリカ在住の画家、Junko Ono Rothwellさんのエッセイによるナビゲーションで、これらの素晴らしい作品をご覧ください。
ロバート・ブラム -明治の日本をアメリカに紹介した画家-
Robert Frederick Blum(18571903)
江戸末期の嘉永6年(1853年)、突然アメリカよりペリー提督が率いる黒船が浦賀にやってきて日本中を震撼させた。それから4年たった1857年日本が開国か攘夷か騒然としている頃、アメリカのシンシナテイでロバート・ブラムという一人の男の子が生まれた。彼が11歳の時(1868年)明治維新となったが日本開国のニュースも日本から遠く離れたブラムの住む街では話題にはならなかったかも知れない。
ブラムにとっての日本との出会いは16 歳の時だった。道ばたで売っていた日本の扇を買い、その時のことを後にこう書いている。「今まで見たことにない、初めての物。私にとって突然の啓示といえるできごとでした。」そしてこの絵の好きな少年は次第に日本への関心を高めていく。
それから三年経って、1876年19歳になったブラムはフィラデルフィアのペンシルベニア美術学校で学んでいた。その年、そこではアメリカ独立百周年記念万国博覧会が開かれた。ブラムはすばらしい日本の展示をみて感動し、日本を訪ねたいという願いが大きくふくらむ。しかし実際に日本の土をふむまでにそれから13年待たなければならなかった。
ブラムは1880年に初めてヨーロッパに行き、イタリアのベニスでアメリカ人画家ジェームス・ウィスラーに会う。ウィスラーは油絵画家だが、ベニスではエッチングやパステル画も制作していた。そのパステル画に接したブラムは、すぐに鮮やかな色、手軽さ、絵としての質の高さなどパステル画の優れた特徴をみて自分も試してみるようになった。
その4年後、アメリカ人画家ウィリアム・メリット・チェイスとオランダに旅した。二人でよく野外の写生に出かけ、どちらもパステル画を手がけた。
アメリカに帰ったブラムはチェイスらと共にパステル画家協会を設立し、1884年、パステル画家協会の第1回パステル展を開いた。ブラムは12点のパステル画を出品した。この展覧会は1890年まで続いた。
ウィスラーもチェイスはアメリカ人画家としては第一に名前が挙がるほど有名だが、ブラムは今ではあまり知られていない。しかしパステルにおいては、ブラムはチェイスとともに高く評価されていた。
ブラムが33歳の時についに日本に行くチャンスが訪れた。もともとイラストレーターとして出発して、挿し絵も描いていたブラムは雑誌”Scribner’s Magazine”の仕事で日本に行くことになった。”Japonica”という記事の挿し絵を描くことになったの
だ。この雑誌は記事と挿し絵、詩短編など載せた知的な読み物として知られていた。
長年の夢だった日本にやっと着いたのは明治23年(1890年)だった。日本は期待に違わなかった。感激したブラムは到着して数日後、友人のオットー・バッチャーに次のような手紙を送った。「恋におちたら相手の魅力がなにもかもを包んでしまうということがあるでしょう? 今のところ日本は私にとってその状態なのです。日本を私のためにこのままにして置いて下さいと祈っています。私は神に祝福された地に足をふみいれたのです。私の人生の中でぼんやりしたあこがれだったことが本当に実現したのです。」
ブラムは挿し絵のほかにも、彼自身の見聞きした日本のありさまを伝えようとを「日本に滞在中の画家」”An Artist in Japan”という記事を書いて雑誌社に送っている。
滞在期間はわずか2年半だったが、多くの油絵や水彩、素描、パステル画を描いている。明治23年の日本には油絵も珍しかったが、パステル画はもっと珍しかっただろう。ブラムのほかに当時日本でパステルが描かれたという記録は見つからない。ブラムのパステル画はおそらく日本で描かれた最初のものではなかろうか。(明治の日本で描かれたパステル画を調べてみるとこの9年後同じくアメリカ人の画家リラ・キャボット・ペリーが日本でパステル画を描いている。)
ブラムのパステル画に「青い帯」(The Blue Obi、18901893)というのがある。黄色いうちわを持った着物姿の女性がたっており、青い帯をしめている。スケッチ風のパステルのタッチが顔の表情や着物を浮き上がらせている。
ブラムは日本の青や紺といった色が印象的だったようだ。「ここには青が満ちあふれている。様々な色合いの青、日本の着物の基は青色だ。」と雑誌への記事に書いている。
ブラムの言っているのはきっと藍染めの紺色のことではないだろうか。
ブラムの油絵はパステルほどは評価されなかった。日本で描いた油絵には通りの飴屋とそれを見ている子守たちを描いた”The Ameya”や日本髪の若い女がたたみにほおずえをついて絵本(版画と思われる)を見ている”The Picture Book”、目黒不動を描いた”The Temple Court of Fudo Sama at Meguro, Tokyo”などがある。
飴屋の絵は写真から描いたのかもしれないと思わせるような、写実的な油絵で時間をかけて描いた様子がうかがえる。反対に”The Picture Book”は16cmX25cm の小さな油絵で目の前の若い女の人をさっとスケッチしたらしい、勢いのある絵だ。結い上げた髪や着物の色合いや絵に見入っている表情などよくとらえている。
46歳で亡くなったが死後の回顧展が開かれた際、ニューヨーク・イブニング・ポスト紙は「ブラムのもって生まれた才能にはパステルがよく合っている。すぐ逃げて消えてしまう光や色の扱いなどにおいて特にそうだ。」と書いた。
友人の作家、オスカー・ワイルドは「ブラム、君のすばらしいパステルは黄色のサテン布を食べているような不思議な感じがする。」と言っている。
1919年に出版されたマーテイン・ビムバウム著「美術入門」という本の中ではブラムのことは次のように書かれている。
「パステルを扱う技術のうえから言うなら、ブラムの日本を描いたパステル画に勝る物はない。小さな棒状のパステルでブラムは芸者の肌をまるで白粉油でもつけたかのような絹の肌に描き出す。思いがけないパステルの光沢が魔術のようにちりばめれれて宝石のように輝き出す。そのなかでも一番優れているのはこの”青い帯”だろう。」
ブラムの作品はニューヨークのメトロポリタン美術館、バージニア州リッチモンド市のバージニア美術館、ワーナー・コレクション(アラバマ州)、ホロウィッツ・コレクション(ニューヨーク)に収蔵されている。
参考文献
American Dreams; Painting and Decorative Arts from theWarner Collection
David Park Curry, Virginia Museum of Fine Arts
American Impressionism and Realism;The Margaret and Raymond Horowitz Collection
Nicolai Cikovsky,Jr., National Gallery of Art
American Pastels
Doreen Bolger, The Metropolitan Museum of Art
エッセイ著者
Junko Ono Rothwell (大野順子ロスウェル)
山口県に生まれる。
岡山大学教育学部特設美術工芸科卒業。渡米後、ニューヨーク州コーネル大学で英語、美術を学ぶ。
その後ジョージア州アトランタに移り、油絵をマーク・シャトウブ、パステル画をアルバート・ヘンデルに師事する。
2003年アメリカ・パステル協会よりマスターパステリストと認定される。
アトランタを中心に個展、グループ展を数多く開く。
ニューヨークのアメリカパステル協会展、アメリカ芸術家連盟展を始め、アメリカ国内公募展に出品を重ねる。
日本の現代パステル協会展にも毎年参加している。
サウスイースタン・パステル協会設立にも関わり、1996年のアトランタ・オリンピックの時には 国際パステル展を開催し、日本から現代パステル協会会長の小林哲夫氏を招き講演と講習会を行う。
Junko Ono Rothwellさんについて詳しくはこちらをご覧ください。
http://junkoonorothwell.com/index.htm
Junko Ono Rothwellさん;主な作品の紹介
http://junkoonorothwell.com/Featured.html
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