3・11を超える作家たちへ

安藤栄作(2011年12月29日)

 大自然の中で彫刻を作って生きていきたいと福島県いわき市に移住したのが20年前。15年間を山で暮らし、5年前からは海沿いの小さな町に住んでいた。

我 が家は夫婦そろって彫刻家のため、ご多分に漏れずもう長い間経済的に大変な生活を送ってきた。自分たちの存在のしかたと今の社会システムが噛み合わず、そ の歪みをたくさん受けてきた。精一杯仕事をしても見返りはほんのごくわずか、使ったエネルギーのほとんどは宇宙の何処かへこぼれ落ちているのではないかと 思っていた。2010年には差押えも受けて、その生活に限界が近付いていた。

 

大地震の起こる10日ほど前、お茶を飲みなが ら夫婦でこんな話をいていた。「もし、全てが無くなるとして、1つだけ残したいものって何かある?」「1つだけか・・・浩子は?」「そうね、家族のアルバ ムかな」「俺はアルバムもいらないな」その頃私は家にある彫刻をみんな海岸に持って行って焼いて大地に還すプロジェクトを考えていた。社会システムとの歪 みで溜め込んだ歴史を一度リセットしたいと思っていた。

 

3月11日、その日久しぶりに高校生の娘も連れ立って家族で街に繰り出した。友人の個展を観た後、近くのショッピングセンターの2階で店を冷やかしながら歩いていた。私達の2時46分はその時だった。

そ の日の夕方、海岸から15mの所にあった自宅は家財や道具、たくさんの作品達もろとも津波と火災で無くなってしまった。空き地に止めた車の中で積んであっ た搬入用の毛布にくるまって一夜を明かした。翌日、食料やガソリンの調達をしながら避難所の情報を得るためにカーナビのテレビを見ていると、突然原発が爆 発した。直後、私達はその場に一緒にいたごく少数の友人達と「必ずまた生きて会おう」と約束をし、かみさんの実家がある新潟に向けて出発した。

 

自宅を確認しに戻れたのはそれから3週間後のことだった。東京で大学生活を送る長男をいわき駅で拾い、家族4人で現場に向かった。大好きだった海沿いの町はまるで爆撃の後のようだった。焼けた臭いと吹き抜ける放射能混じりの北風に町から命のときめきが消えていた。

残ったお社

流 失した自宅の前で呆然としていると、娘が小さな箱を見つけて持ってきた。開けてみると中から小さなお人形と着せ替え用の洋服が出てきた。それは娘が幼かっ た時、かみさんが彼女に作ってあげた木彫りのお人形だった。泥ひとつ付いていないそのお人形は何事もなかったかのように微笑んでいた。

人々 の心が繋がり織りあがった海沿いの小さな町。今は瓦礫の平原となったその町を以前の記憶を頼りに家族4人で歩いた。一通り町を回り、そろそろ帰ろうかとい う時、瓦礫の上に見覚えのあるものを見つけた。なんとそれは息子が小さかった頃、私が彼に作ってあげた木彫りの車の玩具だった。その頃家族で乗っていた小 さなワンボックスカーがモデルで、ミニカーでは売っていなかったものを手作りしたのだった。小さな車の玩具は私たちが帰る前に「そろそろ帰るのかい」と、 ひょっこり挨拶しに出てきたように見えた。

不思議な感覚だった。仕事でがつがつ作った大小数百体はあったであろう彫刻達が破壊され無くなり、子供たちに作ってあげた小さくか弱いお人形や玩具が目の前に残っていた。振り返ると瓦礫の平原の中に地元の人が大切にしてきた小さなお社がなぜか無傷で立っていた。

存在する本当の力とは何なのだろう。それはこの先の世界をどういう心で、どういう波動に身を置き生きていけばいいのかというメッセージのように思えた。結局私達は何も拾わず、全てそのままに大地にお花とお線香をたむけて帰路に着くことにした。

 

その後2か月近く、本当にたくさんの方の愛とご支援の中、避難先を転々としながら制作や発表をこなし5月の末に奈良県の明日香村になんとか着地することに なる。この間の事を話し始めると、それだけで原稿用紙数十枚の報告書になってしまうので、ここでは触れないでおくが、私のこれまでの人生でこれほど「あり がとう」という言葉をたくさん口に出した日々はなかった。そしてその言葉のおかげで自分の魂が次第にきれいになっていくのも感じていた。

 

明日香に避難移住し、ほんの少し日常が回り始めた頃、かみさんがつぶやいた。「子供達に幼かった頃の写真くらい残してあげたかったな」それから間もなくし て小さな小包が届くことになる。いわき市にボランティアで入っている東京の方からで、久之浜でアルバムを見つけ、無断で持ち帰りクリーニングをしたのだと いう。写真の中に私の名前を見つけ、友人とネットで調べまくり送ってきたのだ。

包みを開けると、そこには津波でボロボロになった写真たちがクリーニングされ丁寧にビニールに入れられ入っていた。どの写真も子供たちが幼かった頃のものばかり。いったい天はどこで聞き耳を立てているのだろう。

震災前、勝ち負けの生き残りの世界で分断されていた人々の心が、あの日を境に何かを想い出したように繋がり始めている。メッセージはそれぞれの立ち位置の人々の手をバトンのように渡り、宇宙を回って必要としているところへ必要としている時に届けられている。

 

さて、私達アーティストには今何ができるのだろう。あらゆるものが経済というプールに浸かり、生きることが勝ち負けのゲームのように扱われてきた近年。 アートの世界も素直にその影響を受け振舞ってきた。一部のアーティストはそのプールで水を得た魚のように泳ぎ回り、また一部のアーティストはその水が合わ ず、生気を失い居場所を求めて喘いできた。

3・11というウエイクアップコール。想像を絶する破壊と感情の揺さぶりの中、私たちは何に気付 き何を想い出そうとしているのだろう。もはやアートゲームの波動では時代や人々の魂を支えることはできないだろう。すでにプールにはひびが入り、その外に 広がる大海から海水が流れ込んできている。

あの日以来多くの人が遠くから想いを寄せ、また直接被災地に入り活動を続けている。それはヒラヒラと変化する社会の流れにあって、せめて自分の人生の中で1つでも確かなものに触れたいという自分自身へのアクションだ。

彫 刻家の佐藤忠良先生からシベリア抑留の話をお聞きしたことがある。食べ物がない中、生き残った人に共通のことがあったという。それは屈強な体ではなく、詩 や文章を書いたり、絵や工作をしたり、歌を唄ったり、何か自分でできることを持っていた人たちだった。アウシュビッツの記述にも似たようなものがある。出 所の日を指折り数えていた人はその日が来て出所できないと翌日から次々と亡くなっていった。そんな中、創造的な行為を持っていた人はしぶとく生き残ったと いう。人間という存在を支えている最も中心にあるエネルギーとは結局内なる魂の光なのかもしれない。

 

変化は始まったばか りだ。まだまだ大きな災害も続くかもしれない。また、私たちが知らなかった歴史や科学の真相が明かされ、戸惑いと混乱の社会に身を置くこともあるかもしれ ない。そんな時アーティスト達はその直観力とイメージ力、そして強じんなデッサン力で歴史や空間の全体像を見極め、人の存在の骨格となるメッセージをこれ でもかというくらい世界に贈り出してほしい。

 

安藤栄作 彫刻家