奇跡のアーティスト・田中一村のことば
Posted on 2016-08-25 by nakajima
田中一村は、日本のゴーギャンとして例えられるが、私はこの例えが好きになれない。
一村は一村であり、実にすばらしい作品群を残した日本画の天才アーティストだ。
代表作「クワズイモとソテツ」は、日本画でないように見えながらも、遠景に尊いものを配置する縦長の山水画の構造を持つ。
一村の画歴等は画集やサイトを辿ればすぐわかるし、画家として不遇であったかどうかも私はあまり興味はない。
ただ、彼の残した素朴な言葉にわたしはしびれてしまったのでした。
生前、田中一村はこんなことを語っていたという。
「紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。
そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最期の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。
画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いています。一枚に二ヶ月位かゝり、三ヶ年で二十枚はとても出来ません。
私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから・・・・・・
千葉時代を思い出します。常に飢に驅り立てられて心にもない繪をパンのために描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。
私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分なのでございます。
私の千葉に別れの挨拶なのでございますから・・・・・・。
そして、その繪は全部、又奄美に持ち帰るつもりでもあるのです。私は、この南の島で職工として朽ちることで私は満足なのです。
私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又繪をかきませうと思います」
〈田中一村(本名は孝)は、1908(明治41)年に現在の栃木県栃木市に6人兄弟の長男として生まれた。
幼い頃から彫刻家の父・彌吉に南画や彫刻を習い、7歳の児童画展では天皇賞(文部大臣賞とも)を受賞する。
東京美術学校(現・東京芸術大学)では、東山魁夷らと同級だったが、中央画壇の公募 展で落選を重ね、挫折する。
1953年に奄美群島がアメリカの占領下から日本に復帰した。
1958(昭和33)年、一村は生涯独身だったが、長く生活を共にし敬愛していた姉の喜美子と別れ、住み慣れた千葉寺町を去り、画家人生を賭けて単身奄美 大島へ渡った。
奄美では大島紬の染色工として働きながら、絵画にすべてを注ぎ込んで1977(昭和52)年9月11日、69歳の生涯を閉じた。〉
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