日本刀の源流 中鉢美術館
Posted on 2017-04-01 by レッツ君
日本の美術品の中で世界から最も高い評価を得ている日本刀。
奥州鍛冶と東北の歴史から日本刀の源流をひもとく「中鉢美術館」を訪ねました。
全国でも珍しい日本刀専門の美術館です。
日本刀に関してほとんど知識のない私でしたが、改めてその美しさに圧倒されます。
何の知識もない私に館長の中鉢さんは、丁寧に説明して下さいました。
撮影も快く許可して下さいましたので、そのいくつかを紹介させていただきます。
紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトに始まり、優れた製鉄技術を持っていたといわれるタタール人による北方ルートからの鉄の伝播…そして日本刀のルーツを探る…中鉢館長のお話はとても興味深いものでした。
鉄文化の伝播は、朝鮮半島から北九州という「南方ルート」が一般的だが、実は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系のタタール人から間宮海峡(タタール海峡)をヘて津軽を経由し東北に伝わったという「北方ルート」が存在する。
6世紀頃(古墳時代)の遺跡から発見されている蕨手刀(わらびてかたな)と言う東北固有の鉄製の刀がある。発見場所の分布は北海道・東北地方が多く特に岩手県からの出土が極めて多い。
日本刀の原点とされる舞草刀は蕨手刀にそのルーツがあるといえる。
日本刀は平安時代の中期期に完成の域に達したといわれるが、日本刀の原点とされるのは奥州の舞草刀(もうくさとう)である。(岩手県平泉の東南近郊、一関市舞川字舞草、観音山の中腹の地で作刀を続けた舞草鍛冶は、日本で最も古い鍛冶集団の一つとされる。)
ロシア沿岸からの渡来人(タタール人・なまはげ)がもたらした北の鉄文化。
それは月山修験者により信仰の布教とともに諸国に伝播されたのだろう。
律令政権が東北に進出する過程で、奥州の人たちはその支配下におかれ「俘囚」といわれたが、律令政権にとって、俘囚鍛冶たちの優れた技術は大きな戦利品だった。
支配者のもと俘囚鍛冶たちは、移配地での鍛冶集団の成立に大きく関わることになる。
そしてその作品は、高位高官や武将たちに高い評価を得ていたことを古文献が伝えている。
都に先んじた鉄文化と、豊富な資源、奥州平泉の平和を重んじた浄土思想の土壌の上に、我が国の精神文化の象徴とされた「日本刀」は、戦乱の時代、古の武士の心の拠り所として完成されていった。
中鉢館長いわく…「日本刀には強い想いを持ち続けていました。先人の事跡を伝えてゆくのが当館の使命。まぁ、いわばボランティアみたいなもんですけどね…。」
国内外から多くの研究者も訪れる、この刀剣美術館は、奥州伊達藩の学問所だった有備館(宮城県大崎市岩出山)に隣接しています。
中鉢館長の御先祖が岩出山伊達家の家臣だったということも関係しているのでしょう。
日本刀の源流「中鉢美術館」http://chubachimuseum.client.jp/
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