Kiyoko Abe 阿部清子
Posted on 2013-08-20 by nakajima
小さい頃からずっと人を描きたいと思っていました。私にとって、一般に常識とされることでも分からないことがたくさんあり、それは生きる上で恐怖でし た。怖さの原因を知るためにも、自分を含め人を描きたいと感じたんです。実際、社会的には欠点とされている私の特性も、絵を描いている時には長所となるこ とを知りました。
日本画で使う岩絵具は、粒子が粗く混色しにくいんです。それぞれの色に個性があり、さらに墨はやり直しがききません。クセがあっ て不便なのですが、私は逆にそれが自由に繋がっていると感じています。画面上で足していくというより、余分なものを引いていく、そういう日本画の特性が、 自分の美意識や描きたいものにしっくり馴染んだのです。
画材にはなるべくお金がかからないようにしています。筆はコシのある付立筆、これは手にはね返ってくる感触が気持ちいい。私にとって、絵は究極を言ってしまえば水と窓ガラス、指と砂浜があればそれで描けるものなんです。一番大切なのは情熱、そう思っています。
阿部清子さん(グループ展『指派(ゆびのは)展』・2010トークショーにて)
何が正しいかそうでないか。自分を護るためでもあるし
(2013.07.21)
天体の関係と同じ
役目と力学と性格と始まりと終わりと
途中経過がある
すべて 自然現象だ
(2013.03.01)
帰ってくる自信があれば、何処に行っても構わないだろう、
しかし本当に帰られるか?それは何処にも保証はない。
保証なんてそもそも何処にもない、
ならば説得も自信も疑念も有りもしない、
ただ帰るだけだ。
(2013.02.27 )
生まれたいなら 生むしかない
必然と自然が満ちて
潜在意識と健在意識が交わって
一瞬と永遠が重なって
あなたが生まれたいなら、あなたが生むしかない、
自分を丸ごと 生み出すしかない。
覚悟を
何度でも更新
(2012.05.22)
覚悟の更新
私の意志は上手く伝わらない。
それは私の筆致にて、具現するしか道はない。
寝て見る夢さえ御すべしと訓練していた十代の、
もがきあぐねた日々の、延長線上に今も在る。
観光したいわけじゃない。
誰かが見つけて整備されたきれいな場所に、着地したいわけじゃない。
あくまでも、自分で見つけて着地が要。
不安定な場所に片足で立って彼方を見るには五感六感を駆使しなければなるまい、
それがしたい。
研ぎ澄まして内省し、やがて道理と私が馴染んで一体となれば、
次の着地点に足を運べる。
そこは近いようで遠い、或は遠いようで近いかもしれない、
しかし景色は驚く程変わり私は知るだろうと思う。
知っていたような気がするが、
知らなかったことを、ただ実感するのだ。
(2012.09.29 )
人ばかり描いていると、
やはり時々人以外のものを描きたくなりますし、
描くと楽しいです。
自由になれる気がします。視点が大変かわります。遊べます。
また、ひとに近い?妖怪なら尚更遊べます。遊びがあるのは良い事です。
「~でなければならない」が無いのは時に突破口を見つけられます。
今年で二回目となった河童を描く機会、
私なりに河童について調べて手がけていますが、
哀しいかな「河童」は、人間に憧れと劣等感と思い込みを持つ淋しい存在、
と私は解釈して描いています。
まだまだ描き足りない、もっと探究してみたいモチーフです。
人間のような人間でないもの、
という側面から描くのも今後は大いに挑戦したいと考えています。
(2012.11.20 )
「五里霧中 ならば六里を行けばよい 無理もごり押し切
そういう覚悟を持って生きようと思ったのは、
未熟な私が親になったからだった。
何も親らしいことが出来なくて悲しく思う。
ただ存在はすべて愛しい。
(2012.06.12 )
「泣く夜も 何も無い夜も 知る夜も ただそこに在る
出会いしも 言葉も違う 星の下 光をすべと 語りつく
今日は作品を納品しにお茶の水は広岡美術に出かけた。
最近は、過去作品を改めて見直すようにしている。
これまで何年か、振り返って確認する余裕無く来てしまった。それが
必要だったのかもしれないし或いは欺瞞が増長しただけだったとも言えるが、
今、せっかく作った時間にきちんと何事かを確かめたい。
過去の作品を見ると、様々に反省と後悔とが込み上げるため、あまり見たくはないが、
しかし教訓も得られるため致し方ない。
自分はずっと「手」で描かないように気をつけて来たつもりだった。
手先で描くのは、狭い自己満足の手慰みになってしまう。
そして案外気持ちが良く筆が走る。狭い表面的な表情に酔うとも言えるか。
しかしそれで筆を置いてしまうと、まずい。
しかも墨を紙に、という条件だと如実にまずい。
心掛け、了見、志、との真空状態の一致でもって筆を入れないと、間違ってしまう。
今日、廣岡さんに指摘された線が、何を差しているのかしばらくわからなかった。
目がそれを見ていなかった。気がついて愕然とした。
そしてやっと、新しい作品に取りかかる意欲が湧いて来た。
次へ行きたい。
(2013.03.16)
乙女の頃は透明になりたいと願ったものだ。
それは過敏に研ぎすまされた感受性が、日々巨大になってゆく
自尊心を扱いかねて、そして外から内から受信する、数多の底知れぬ
素性も知れぬ情報を抗う事も出来ず浴び過ぎて、混乱し困惑して
投げ出したかったのかも知れない。
いつも逃げ出したかったのだった。
漠然と出家したいと思っていた。
一人になって山奥かなんかで修行に励みたかったのだ。
修行って?それも今思えば漠然としたもので、
とにかく本当の事を知る為だけに集中したかったというか。
現状を受け入れたくない年頃だった。
(2013.03.16)
思惟
思惟
何をくだらない事を
澱のように
でもその過程を経てから
やっと分析して明らかにして解放する準備が整う
ささっと達観するような器ではないのがお恥ずかしいが
私には必要なのだから仕方がない
人間になりたいなあと小さい頃から思っていたが
人間臭くて嫌なのに
やはり理解が難しくて謎の多いのは人間で
興味は尽きないしやってみたい
自然の生物は嘘もないし手加減もないし
まずは自分のくだらなさに
がっくり
がっくりを受け止めます
(2011.05.15)
私をめがけてミサイルが撃ち込まれてきた。
慌ててそこにあったスケッチブックを抱えた。
まだ息のある人を手分けして運び出した。
(2013.03.13)
人の目や思惑など、どうでも良いではないか。
きりがない要求、利用、優越の為のエサ、
ばかばかしい。それでご満悦か?
わたしはわたしのものだ!
わたしはわたしの生を全うする。
(2009.01.04)
阿部清子プロフィール
1970年東京生まれ、日本画家。
主に人物画を手がける。
『劇場』 『滑稽上等』 『優しい人非人』など、
機知に富んだ個展を開催している。
阿部清子HP 「水青餡 阿部清子画室」http://www.abekiyoko.com/index.html
今回の企画について
表現者には、常識や既成の価値観と闘わざるを得ない、どうしようもない運命のようなものがあると感じています。
世の中と気分との狭間で葛藤するのは生まれた時からの宿命のようなものです。
鋭敏な感性であるがゆえに傷つき、しだいに丸くなってゆくのが常なんでしょう。
日本画家、阿部清子さんの作品を2005年から現在に至るまで拝見しました。
その感性は時を重ねる毎に鋭く、鋼のような強さを備えてゆく、そんな印象を受けました。
女性として人間として、悩みながら這いつくばって生きてるような強さです。
ブログも拝見しました。私は、とても好きです。
若い表現者を励ましてくれる等身大の強さが気に入ってます。
今回、あったかギャラリーではそういう事で、阿部清子さんに登場をお願いしました。
概ね、現在から過去の作品という展示の流れです。
構えずに、作品と対話できるように、テーマの分類もせず、
所々に清子さんのブログから文章の引用を試みました。
私の力量不足のため、清子さんにとっては大いに不満が残る展示内容かもしれません。
(過去の作品や文章を、他人がレイアウトするのですから。。。申し訳ない!!)
にもかかわらず、快く全てを任せ許可してくださいました。とても有り難いことです!!
数年前、偶然知り合えた写真家の清家さんが自身のFBサイトで清子さんを紹介なさったのがきっかけでしたが、人のつながりの面白さに感謝しています。
ほんとうに、ありがとうございます!!
(2013.8月 中嶋)
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