白洲正子とリラ・キャボット・ペリー
Posted on 2018-01-20 by nakajima
平成30年の今年(2018年)は,明治元年(1868年)から起算して満150年に当たります。
今回の「あったかギャラリー」は「明治の日本を描いた女性・画家リラ・キャボット・ペリーがつなぐアメリカと日本の不思議な縁」をご紹介します。
(少々長い文章ですが、こんな人物が登場します。〜薩摩藩士樺山愛輔、幕末の黒舟で知られるペリー、印象派画家リラ、娘アリスと夫のグルー大使、リラの孫娘エルシー、白洲次郎、白洲正子〜…幕末〜明治〜昭和の日米開戦と復興という流れの中で、明治の日本を描いた一人の女性アーティストは、日米にこんな関わりをもっていたというエピソードです。)
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幕末のペリー来航から明治へ
リラ・キャボット・ペリーの日本滞在
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Lydia Cabot(後のリラ・キャボット・ペリー)は1848年アメリカ、ボストンの名家の生まれ。
家族で『若草物語』の著者ルイザ・メイ・オルコットや詩人のジェイムズ・ラッセル・ローウェル、思想家のエマーソン等との交流もあったとあります。
1874年4月、ハーヴァード大学を卒業した言語学者トーマス・サージェント・ペリーと結婚。
夫の大おじは、『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず』浦賀に黒船でやって来たマシュー・ペリーです。
彼女の正規の絵の教育は結婚後の1884年から、とあります。
最初はボストンで、後にパリへ渡り、そこでヨーロッパの芸術を学び、画家としてデビュー。
同じ印象派画家のカミーユ・ピサロ、メアリー・カサット、そしてクロード・モネと友好を結び、ボストンに戻った1994-97年の間に、国際的にも認められる画家となります。
1898年、夫が慶応義塾大学の英語教授に任命され来日。
日本で彼女は岡倉天心と出会い、個展を東京で開催し、日本美術院名誉会員を受けます。
それは彼女にとって、物理的にも心理的にも、二つの側面からの、東洋と西洋の結合が生まれた時期でもあります。
光と影を巧みに用い、立体的に描いていく西洋の油彩手法と、線と面の調和と平坦な色遣いで、一葉としての絵に仕上げる日本のやり方。
この融合による、新しい画風の誕生。
日本には、たった3年間の滞在でしたが、この時期に彼女が80枚以上の絵を描いていたことは、画家として、満ち足りた日々を過ごしていたことがうかがえます。
上記の絵『Torio, Tokyo, Japan(三重奏)』は東京の自宅で演奏をする、彼女の三人の娘たちを描いています。
長女マーガレット、次女エディス、そして三女のアリス。
この中に居るアリスが、件名の白洲正子へと繋がる不思議な過去の旅へと誘ってくれたのでした。
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リラ・キャボット・ペリーの娘アリス
日米開戦までの激動の時代を昭和の日本で過ごす
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リラ・キャボット・ペリーは女性画家らしく、身近な人物の肖像画をよく描き、特に娘たちは度々、モデルとして登場しています。
1901年、彼女は家族と共にボストンに戻り、2年後、ニューハンプシャー州に居を構えます。
1904年のセントルイス万国博覧会に、結婚したアリスを描いた『The portrait of Mrs. Joseph Clark Grew (ジョセフ・クラーク・グルー夫人の像)』を出品、銅メダルを獲得します。
三女のアリスは帰郷後、ハーヴァード大学の卒業生でもあり外交官になりたてのボストンの名士、ジョセフ・グルー氏と結婚しました。
彼のウィキペディアによると、結婚後は国務省勤務を経て、デンマークとスイスの行使、トルコ大使を歴任後、1932年に来日。
駐日大使として約10年間、日米開戦までの激動の時代を日本で過ごすこととなります。
リラは、二人が日本に住むことを喜んでいました。
また、日本について誰よりも知っているのよと、(アリスとジョセフの娘である)孫のエリザベスの手紙の中に綴られていました。
――大野順子ロスウェル『リラ・キャボット・ペリー 明治の日本を描いた印象派の画家』より
1933年、娘夫婦が日本滞在中に、リラは死去します。
晩年は風景画を描き、展覧会への出品意欲も失われず、画家としての一生を終えます。
さて、大使夫人となり、再び日本の地を踏んだアリスは、夫と共に日本の上流階級や財閥との社交にいそしみます。
ジョセフが後年、親日派となったのも、この時代の名だたる面々との付き合いから生まれたものと想像がつきます。
その交流の中でも、特筆すべき友人が、樺山愛輔。
文筆家、白洲正子の実父でした。
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薩摩藩士樺山愛輔と駐日大使ジョセフ・グルー
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白洲正子の父、樺山愛輔は1965年(慶応元年)に薩摩藩士として生まれます。
愛輔の父、樺山資紀は幕末の薩摩隼人として薩英戦争、戊辰戦争、西南戦争に従軍、
後に、警視総監、海軍大臣、海軍軍令部長、台湾総督、枢密顧問官、内務大臣、文部大臣を歴任します。
愛輔は明治11年、13歳でアメリカに留学。
『白洲正子自伝』によると、―明治12年、アメリカの《アームハースト大学》へ留学、とあります。
これはアマースト大学のことですが、おそらく樺山家では上記の発音をしていたのでしょう。
その後、ドイツのボン大学に入学。
帰国後、日本の実業界の役職を経て、日米協会会長、国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長等、国を越えた文化事業を行っていましたが、愛輔にとって官位は必要外であり、会社や財団など建立した後はすぐさま後見人に預けていたそうです。
これは、生来の蒲柳の質(身体が弱かった)のため、といわれています。
この時代、交際した人物の中には、戦中戦後の日本の文化財存続に関する鍵を握るラングドン・ウォーナーもおりました。
また自伝では、大正時代にサンタフェ鉄道のオーナーである愛輔の親友アーサー・カーチス・ジェームス氏が、自家用ヨットで来日した思い出話が記されています。
この来日目的は、同志社大学に建物を寄付するためであったとあります。
これは、現在、同志社女子大学内にある『ジェームズ館』のことです。
1913年(大正2年)設立、完成は翌年。
設計士は関西建築界の父、武田五一です。
『白洲正子自伝』第八章 わが一族
――この中に、愛輔が小田原の益田鈍翁(益田孝)の邸宅に呼ばれた際の、写真が挙げられています。
そこには、ジョセフ・グルー駐日大使夫妻も写し出されていました。
向かって正面、鈍翁とグルー大使と他4名は庭に置かれた椅子に。
間に4名が立っており、その後方の座敷の隅に頬杖をついた愛輔と、柱を隔てた隣に大使夫人アリスが、隣同士に座っています。
帽子姿のアリスはゆったりとした風情で柱によりかかっており、愛輔の頬杖姿と相まって、この集まりが気の置けない仲間たちであったことと想像できます。
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グルー家と白州家
いにしえの西洋と日本の融合
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『白洲正子自伝』には、グルー大使一家と白洲次郎・正子夫妻の交際についても記されています。
大使一家が来日したのは昭和7年。
正子は、グルー家のことを品がよく、教養もあり、立派な風格を備えていたと書き残しています。
ジョセフとアリスの間には四人の娘がいました。
イーディス、リラ・ローズ、アニタ、そしてエリザベス。
次女リラ・ローズは、東京公使館に努めたこともあるジェイ・ピアポント・モファットと結婚していました。
四女のエリザベス(通称エルシー)は1912年生まれ。
1910年生まれの正子と年も近く、よき遊び友達だったようで、朝から晩までアメリカ大使館に入り浸り、正子自身も社交界と名付けるものが日本にあったとするならば、このグルー大使がやって来た昭和6年前後から日中戦争までの数年間であろう、と言及しています。
白洲正子は、後の日本文化や美に関する著作物で、古典に染まり精通しているイメージがありますが、若い頃の写真は、夫の次郎と共に、当時としては洋装姿も決まった粋な風貌に徹しています。
愛車ランチアを乗り回し、颯爽と通り抜ける姿は、昭和モダンのまさにモボ・モガの様相でした。
二人が結婚した時、両家とも世界大恐慌の後遺症によって没落。
親世代の頃と異なり、華やかな交流はそれなりに落ち着いていたようですが、グルー大使一家との付き合いは特別だったようです。
自伝の中には、昭和7年頃、エルシー・グルーの結婚式に友人たちと参加し、微笑む着物姿の正子の写真が挙げられています。
それは齢八十を越えた正子が、自らもっとも華やかな時代であった、と回想するように、
大使館のプールで朝まで泳いでいたり、毎日の訪問のために何枚ものイヴニング・ドレスを自分で縫い、燕尾服やホワイト・タイの紳士たちとダンスを踊るといった社交の日々が繰り広げられていたのでした。
グルー大使夫妻の集いのおひらきは、ウィンナー・ワルツと決まっていました。
残りの時間はいつの時代も、お若い方におまかせという印で、大使館ではそれが合図だったのです。
大使の、最後のダンスの相手は、自然と正子になっていました。
能の舞いを習っていた彼女は、凛とした立ち居振る舞いで大使のお相手を務めたのでしょう。
古き良き時代のヨーロッパのワルツと、日本の古典の能。
戦前の東京で、いにしえの夢の様な西洋と日本の融合が、ゆったりとした音楽の流れの中で、生まれては消えていったことが伺えます。
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日本の復興を願ったグルー夫妻
そしてリラの孫娘エルシーと白洲正子の友情
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『白洲正子自伝』によると、ジョセフ・グルー駐日大使夫妻の末娘エルシーは昭和7年頃、セシル・ライオンという大使館員と結婚した、とあります。
ニューヨーク・タイムズの記事によると、この結婚式は1933年10月7日に日本のアメリカ大使館で行われ、秩父宮同妃両殿下、齋藤實総理大臣、徳川公爵夫妻など、多くの皇族華族が招待された盛大な挙式であり、セレモニーの様子や家族に関しての内容が報道されています。
その後のグルー家と白洲家の付き合いは、
――戦争が私たちの仲をへだててしまったので、その後の消息はしらない。
と、書き記しています。
ジョセフ・グルー大使は当時の外務大臣、広田弘毅と日米開戦を避けるべく関係を繋いできていました。
しかし、1941年の真珠湾攻撃による戦争回避の道が閉ざされた翌年、戦時交換船により家族と共にアメリカに帰国。
帰国後、『Ten Years in Japan(滞日十年)』、『Report from Tokyo(東京報告)』を出版。
日本に原爆投下を行使せずに全面降伏させようと奔走。
戦後は天皇制維持の立場を貫き、米国対日評議会の活動を通じ日本の復興路線を支持します。
1965年に85歳、マサチューセッツ州にて死去。
妻のアリスは1959年に75歳、同地で既に亡くなっていました。
結婚後のセシルとエルシーは、北京やカイロに滞在。
第二次大戦後は大使夫妻としてチリ、スリランカ、モルディブの任務を経た後、夫セシルは1993年に、エルシーは1998年に死去しています。
夫妻の間には、Alice Emily とLilla Cabot、
母と祖母の名を受け継いだ娘たちが生まれました。
再び『白洲正子自伝』から、
――グルー夫妻とエルシーの友情は生涯忘れないであろう。
奇しくもエルシーが亡くなった年の12月に、正子もこの世を去っています。
一枚の絵から繋がる不思議な縁と、それが織りなす歴史の綾。
黒船来航から、明治大正昭和を駆け抜け、平成の世まで辿る道は、まだこの先も人の出会いがある限り、続いていくことでしょう。
(了)
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長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。
このエッセイは「るうの」さんこと飯田さんによる5回にわたるブログ「白洲正子とリラ・キャボット・ペリー(vol.1〜5)」をまとめたものです。
こちらのリンクがオリジナルですのでどうぞ合わせてご覧ください。
(「やまと、まほろば、すゞろあゆみて」より)
https://ameblo.jp/iigari-gento/theme5-10096540031.html
https://ameblo.jp/iigari-gento/theme4-10096540031.html
https://ameblo.jp/iigari-gento/theme3-10096540031.html
https://ameblo.jp/iigari-gento/theme2-10096540031.html
https://ameblo.jp/iigari-gento/theme-10096540031.html
また、著者の飯田さんから私(中嶋)宛に届いたメールにもまた興味深いものがありましたので、一部ご紹介させていただきます。
(抜粋)…………御縁、ということを考慮いたしますと、
こちらのリラ・キャボット・ペリーと白洲正子との関係も大変不思議であります。
私の憶測では、白洲さんはおそらくリラ・キャボット・ペリーのことは一切存じ上げていなかったと思われます。
というのは、物書きという性分を考えますと、必ずどこかしらで書いてしまうものなのですが、白洲さんの随筆の中には何も出てきませんでした。ただ駐日大使のジョセフ・グルー氏との関係は、白洲さんの自伝に自筆で書かれております。
私がこのリラ・キャボット・ペリーに関してブログを書こうと思った時、自分のパソコンの前に、たまたま図書館から借りてきた白洲正子の自伝がありました。
リラの娘のアリスを調べていた時に、ジョセフ・グルー氏の名前を発見し、
「この名前は最近どこかで見かけたなぁ?」と思った瞬間、目前の本の中に大使の写真と戦前の樺山伯爵家(正子の実家)とのエピソードがあったわけです。あったかギャラリーでの掲載、これも御縁ということで、喜ばしいことと受け止めております。
「るうの」さんこと飯田さん、どうもありがとうございました。
この御縁に深く感謝いたします!
(中嶋)
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