井桁裕子 IGETA Hiroko

Posted on 2018-09-18 by nakajima

すごいアーティストです…井桁裕子(いげたひろこ)さん。
彼女を知ったのは2012年の8月。
あったかギャラリーで紹介させて頂きたい旨を伝えたものの、6年も経過してしまいました。

上手いとか、すてきだとか、美しいとか、そういう言葉をいくら並べても彼女の作品の前では意味をなすとは思えなく、私の言葉ではもうどうしようもなく無力だと感じまして…。
でも、今せめて作家の一部をこのサイトに記録しておこうと思います。

井桁さんの作品を知るための扉として、まず彼女のサイトをご紹介いたします。
「IGETA Hiroko サイト〜面影」http://igeta-hiroko.com/

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「IGETA Hiroko サイト〜面影」より

私は特に、彼女のブログ(創作の姿勢)に強く魅かれました。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50030394.html
(ギャラリー「ときの忘れもの」が運営するサイトに2009年の第1回から2015年まで、76回にわたり連載されたエッセイです。)

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「IGETA Hiroko サイト〜面影」より

その中から、二分脊椎症・先天性畸形・側湾症を持って生まれた、義足の女優にしてダンサーの森田かずよさんをモデルにしての創作過程を、井桁さんのブログより一部抜粋してみました。

作品一体の制作にまつわるエピソード(2012年から始まり2015年の発表までの制作過程)の抜粋ですが、まさにモデルと語り合いその世界を共有するため、作品には長い「時間」が織り込まれているのです。

抜粋とは言え、けっこうな長文ですので、時間のある時にごゆっくりご覧頂ければと思います。

 

森田かずよさんとの出会い
(2014年07月20日 私の人形制作第61回 「ときの忘れもの」より 井桁裕子 )

(中略)
私がもともと作っていた球体関節人形は、正面図と側面図を描いて立方体の芯材を削りだし、それをもとに造形します。あるいは油土原型から張り子を起こします。いずれにせよ見通しの立ちやすい作業でした。
設計図を立方体の芯材に写し取る、それは人形が単純な形なのでできることです。
複雑なねじれがあったり入り組んでいる形を作る場合、紙に展開図を描く事はできません。
結局、盛り上げと乾燥にとても時間のかかる桐塑でずいぶん試行錯誤してしまったのです。
この経験で、次に「難しい形」を作るには陶土で小さい習作を作ってからにしよう!と、私はやっと学習したのでした。
陶土では、その造形のスピーディーさを生かして、自分の頭の中にあるものを実際に三次元に存在させてみる実験的な作業に取り組む事ができます。
この二ヶ月半の陶土での造形はそういった意味で、昨年から取り組み始めた作品のための習作が主な目的のはずでした。
しかしあまり理性の縛りの無い悦楽的なものを作るほうに気が乗ってしまい、寄り道の多かった「焼き物月間」でした。

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昨年からずっと肖像の作品として取り組んでいるモデルの方とは、大阪の森田かずよさんのことです。
陶土でも桐塑でもずっと「試作」し続けて、あっという間に1年が過ぎてしまいました。

森田さんの存在を知ったのは、2012年4月のはじめ、Facebookからでした。
大阪の京谷裕彰さんと、奈良のアートシーンで活躍するやまもとあつしさんが、
「義足の女優・ダンサー 森田かずよさんからのお願いです。」との説明付きで森田さんの投稿を紹介したものを読んだのです。

「フィギュアとか造形とか粘土とかそういったものをされている方で私の身体の模型を作ってくれる人いないでしょうか?そんなに大きな物でなくて。体幹障害とか側湾って言葉で説明するのが難しい(特に私の身体は)。(後略)」

この話の該当者と思われる私は、ちょっと気になりましたが、大阪にも造形を手がける良い人がいるだろうと思って見過ごしていました。
するとその日の晩に、やはりFacebookでやりとりのあった京谷さんからメールが届きました。
改めて投稿を知らせてくれて、森田さんに会ってみてはどうかというのでした。
私はその年の11月にときの忘れものでの個展の予定があったので、それが終わらなければ新しいことには取りかかれないという事情もあり、そもそも全く知らない方なのだし、そういわれてもやはりやや腰が引けていました。
しかし、結局はその4月の終わりに私がアート京都に行く事になっていたので、そこでちょうど良く作品も見てもらいながら、森田さん、京谷さんと会う事ができたのでした。

*森田かずよオフィシャルサイト
http://www.convey-art.com

森田かずよさんは1977年に先天性側湾症、二分脊椎症、その他たくさんの大きな障害を負って生まれてきました。
右手の指は4本で、曲がったままの右肘。
肋骨も右は3本欠けています。
右脚の膝から下は太い方の骨がなく、長さも短いので義足を着けています。
仙骨も欠損しています。
側湾症は、ただ横に曲がっているのではなく、ねじれながら立体的に曲がっています。
右の骨盤が脇の下のほうにぐっと近づいていて、細い右腕がお尻の上に乗って半分抱えるような様子です。
もし他の人が真似をするとしたら、背中を強くそらしたまま顔は前を見て右に体を強く曲げる、といったような形になるのでしょうが、もちろんそれはやってみてもできません。
誕生した当時は、首に近い背骨に大きく穴が開いていて、脊髄が見えそうな状態だったそうです。
それは脊髄髄膜瘤とのことで、そこから感染が起きて赤ちゃんのうちに亡くなるだろうと医師に宣告され、ご家族も覚悟されていました。ところがその恐ろしい傷口に皮が張ってふさがり、かずよさんはたくましく生き延びていったのです。
単に生き延びるというだけのことではなく、パワフルで知的な個性をもったかけがえのない存在として。

11月から12月にかけての個展を終えて、翌年1月。
私は年明け早々に森田さんに連絡して、会ってもらう事になりました。
森田さんが欲しいくらいの小さい「フィギュア」、それだけでなくもっと何か、この出会いを作品にしたいという希望が湧いていました。
もはや逡巡は無かったのですが、まだその難しさに私はあまり気付いていませんでした。
私は新しい取り組みに向かうときにはどうしてか、自分がどんなことでもできると気楽に思い込んでいるのです。

 

 

森田かずよさんとの出会い―その2
(2014年08月20日 私の人形制作第62回「ときの忘れもの」より 井桁裕子)

今月8月1日、横浜パラトリエンナーレのオープニングセレモニーに行ってきました。
http://www.paratriennale.net
森田さんがセレモニーで踊るという情報をその前日に知って、私も別の約束があったのを急遽断って駆けつけたのです。
それは関係者だけの催しだったからでしょうか、パフォーマンスは秘密とされていたので、情報発信ができなかったのだそうです。
行ってみると招待者名簿に載っていなくても問題なく入場でき、私にとってはとても重要な機会となりました。
やっと自分の眼で森田さんの踊る姿を観られたからです。演劇の舞台は観ていましたが、ダンスは初めてでした。
何事もそうですが、実際に流れる時間の中で経験するのと二次的に情報を知るのとは、まるで違うものです。
大柄な外国人ダンサーの、会場狭しと踊るなかにあって、めりはりのある切れ味の良い動きを見せる森田さんでした。
しかし、ふわふわした白い衣装の下にまったく隠れてしまっている細い身体の、研ぎすまされたようなあの筋肉を思えば、その動きは思いがけないものではなかったかもしれません。

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2012年12月、ときの忘れものでの個展「加速する私たち」を終えて、私は本当なら展示の準備でおざなりにしていたあれこれの整理をするつもりでした。
長い期間ぎりぎりまで頑張ってきた展覧会が終わっていろいろと反省もあり、それはゆっくり考えたい大切なことでした。
しかし、その整理整頓の時間もとれないままに突然、大阪の乙画廊で3月に展示をする、ということになりました。
グループ展になら陶の作品を少し作って参加できるという話をしていたはずが、「個展」ということで美術手帳の別冊の目立つ所に広告が出されてしまったのです。
休む間もなくまた「個展3ヶ月前(実質的には2ヶ月半ほど)」という修羅場になってしまいました。

急にこういう無茶なことになったのは簡単に言って私の曖昧な態度のせいですが、これはそもそも、大阪で少しだけ作品を展示したいという願望があったからです。そこには大阪の森田かずよさんの作品制作がからんでいました。
私としては、森田さんご本人の希望されているような、小さいフィギュアのようなものを陶で作り、それを森田さんが見に来やすい大阪で、ちょっとグループ展のようなものに参加して展示できたら….というもくろみがありました。そんな事をやってみてから、もっと本格的に肖像作品を作るかどうか考えよう、などと思っていたのでした。
しかし、個展となってしまうと準備が全く違います。
1月中旬に、まだ訪れたことのなかった乙画廊に下見のためにお邪魔する事にし、それと合わせて森田さんにも会ってもらうことに段取りをつけました。
経緯はともかく、ご縁あってお世話になるわけですから楽しもうと決め、ご当地の皆さんとの交流や大阪観光も心に描きつつ、寝る間も惜しむ制作の日々に突入することになりました。

森田さんとは、その半年ほど前のアート京都で初顔合わせをして以来の再会となります。
それなのに、私はもういきなりヌードを見せてもらう事をお願いしていました。
2月中に作るのですから、1月に会って写真など撮らせてもらって急いで制作、というスケジュールしかないわけですが、私の側でなんとなく準備不足な気がしていました。
私は森田さんご本人の舞台も観ていなければ、他の障害者による身体表現についても知りませんでした。
障害者スポーツということでは、義肢装具士・臼井二美男さんが主宰する「ヘルスエンジェルス」の活動を知っていましたが、それは表現ということとはまた違います。
森田さんのことを、前の個展でモデルとなってくれた高橋理通子さんに話したときに、彼女が「そりゃもう、本物の障害者の人には勝てないよ」と真顔であっさり言ったのを思い出しました。素晴らしい身体能力を持ち、寺山修司をこよなく愛する舞踏家の彼女が言う「勝てない」という言葉の意味は、私にも分かる気はしましたが、やはりまだ表面的にしかつかめない気がしました。

そんな12月、たまたま立ち寄った書店で「生きるための試行 エイブルアートの実験」(エイブル・アート・ジャパン+フィルムアート社)という本を見つけました。これは障害者による音楽パフォーマンスや身体表現などに関わる人々を取材した本です。障害者の側でなく、健常者のアーティストや世話役のような立場の人が語っているものでした。
取り急ぎその本を買いました。
休む間も惜しい作業の中なのであまり深くは読みこめないながらも、いろいろな活動が行われている事、そしてそれぞれに重要な何かを気付いて続けていることが伝わってきました。しかしそのぶん一層、私は自分がこれまで無関心でいた世界に無造作に手を触れようとしている、という感じがして不安になりました。
最初に私の眼を引いた表紙には、広く暗い舞台の空間の中に激しく動こうとしている後ろ姿の女性の写真が使われていました。
実はその表紙の女性が森田さんその人であった!というのはごく最近、ご本人に教えてもらって知った事です。
ずっと持っていて気付かないのも間抜けですが、出会うべき本に事前に巡り会っていた不思議さも感じます。

また、夏からネットでいろいろ調べているうちに、大阪の「劇団態変」の存在も知るようになっていました。重度の障害者である金満里(キム・マンリ)さんが主宰する、身障者自身が演出し演じる劇団です。
*劇団「態変」ウェブサイト:http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/
その金満里さんが、12月末に新宿タイニイ・アリスでソロ公演をされるということを、この時に知って驚きました。
東京でのめったにない公演が、なんとこのタイミングで観られるとは。
12月27~30日「天にもぐり地にのぼる」。
さっそく予約をし、最終日に行きました。

タイニイ・アリスは地下の小さな劇場でした。
舞台の布の奥から、レオタードの生地に包まれた「何か」が少しずつ這い出してきます。
その動きは、砂を入れた大きな袋が自力で動いている様子…とでも言えばいいのか、見たこともないものでした。ぐったりとして、不定形にさえ見えるその身体に、急角度で折り畳まれた脚が体の上になり下になりしながら無力にしなっています。膝から下の向きがまた謎で、右足と左足は、布で柔らかく作った人形のようにあっちとこっちを向いていました。
舞台の大筋としては、人間の内面の混沌、自由を求める心の変遷を「真白な子蛇が龍へと変容する」というモチーフに込めて幻想的に表したものでした。最後は監修・音響で協力されていた大野慶人氏が可愛らしく兎の耳をつけて登場、金満里さんに戯れるように踊り、ほのぼのしたフィナーレとなりました。これは、激動と孤高の半生を経てきた龍がついに月にまで上って出会った兎ということだったのかもしれません。しかしそこまでが息をこらして見つめるような舞台だっただけに、観客はふいに魔術から解きほぐされ、意識が取り戻させられる効果があったと思います。

出口でポストカードと金満里さんの自伝「生きることのはじまり」(金満里著、筑摩書房)を買って帰りました。
その一冊の本で、とても多くの事がわかりました。
金満里さんは体を自力で支えておく事も難しく、寝返りすら困難、かろうじて平面で体を引きずるように動く事しかできません。
食事や、簡単な衣服の着脱程度はできても、日常のほとんどすべてに人の手が必要な状態だということが本の冒頭にあり、あの舞台での動きは精一杯の動きだった事も改めてわかりました。その体で、出産もされたというのがさらに驚きでした。
そして、1953年大阪生まれの金さんは、私が断片的にしか知らなかった「青い芝の会」など先駆的な障害者運動のまっただ中にいて青春を送った人ということがわかり、私は引き込まれるように読み進みました。

 

 

森田かずよさんとの出会い―その3・金満里さんの本
(2014年09月20日 私の人形制作第63回 「ときの忘れもの」より 井桁裕子)

私たちは学校で基本的人権という言葉を習います。人は生きる権利を無条件で保障される、ただ命があるだけでなく、差別されず自由に、なるべく文化的に生きる事が保障されているということを、日本では誰もが知っています。
ところが、なぜか権利が「義務」とセットにされる考え方もあります。
「子どもの権利条約」という国際条約があり、これについてのテレビのニュース番組を見ていたら、「子どもは義務を果たしていないから権利も無いと思う」と若い親たちがインタビューに答えていました。
この場合にいわれる「果たしていない義務」とは具体的に何を想定しているのでしょうか。
それは「子どもは働いていない、納税もしていない」ということじゃないかと思われました。
また、権利という言葉を単に勝手なわがままを言う事のようにとらえているのかもしれません。
しかし子どもが義務として働き税金まで徴収される状況があれば、それは子どもが大人たちから守られていないという事なわけです。子どもの権利条約はまさにそういうことを正して、子どもが安全に暮らし、健康に賢く成長するためのものです。
もし「自分で稼げない者は権利も制限されて当然」と考える癖が人々に染み付いているとしたら、それは子どもについての話だけにはとどまりません。金を払ったものだけが権利を得るというのは、万能のルールなのでしょうか?
金銭に換えられない守られるべきものがあるということをそれぞれに確認することが、私には今とても大切に思えます。

2012年12月30日に観に行った金満里さんのソロ公演について先月書きました。そこで買った自伝「生きることのはじまり」(金満里著、筑摩書房)は、私にとって公演それ自体に加えてさらに重要なものでした。
脳性マヒやいろいろな身体障害を持った人々による劇団「態変」の舞台の始まりの様子から、この本も始まります。そして1953年生まれの金満里さんの、朝鮮古典芸能の伝承者であるお母さんのこと、3歳でポリオにかかって障害を負ってからの、病院や施設での過酷な生活へと話は順を追って書かれています。当時の施設は設備も人員も不備で、人間らしい扱いをされずにあっというまに悪化して死んでしまう子どもたちもいました。突きつけられる人間のエゴイズムが、冷静な言葉で語られていきます。
1975年、高校卒業後の将来のことを悩み自死の誘惑と向き合う日々を送っていたなかで、金さんは衝撃的に障害者運動のグループと出会います。
CP(脳性マヒ)の人々の集まり「青い芝の会」です。それはCP者が社会と対等になることをめざす解放運動の組織で、CP者自身によってすべての方針が決められていくものでした。これが結成される前の準備段階の会に、金さんはポリオによる障害だったのですが、友人に誘われて参加したのでした。当時、全国組織にまで広がったこの運動は健常者ボランティアの無償の介護に支えられながら成立していました。ボランティアと私は今書いてしまっていますが、金さんは、「優しさぶりっ子」なボランティアなんて嫌いだったが、健常者がボランティアではなく友人関係として関わっていると聞いて驚いて参加した、と当時の記憶を書かれています。
しかしそこでさらに会では、真の自立のあり方を強く求める議論が続いて行きます。
会の主体は障害者であるはずなのに、結局、健常者の組織があってこそできる運動となってしまう….その矛盾は避けられないものでした。それは実際のトラブルというよりは理念の追求による問題提起だったという事が読み取れます。
やがて青い芝の会では、金さんのいた兵庫県の支部を皮切りに健常者の組織を障害者の側から切り離すという厳しい決断をする展開を迎えます。会の運動から離れた金さんも、健常者の側にしか来るか来ないかを選ぶ権利はない、そして介護者が来なければ死ぬしかないという自立の生活を選びます。そこからいろいろな経緯を経て、劇団「態変」の立ち上げにつながっていきました。

青い芝の会という名前は私も知っていて、以前、インターネットで映像を観た事がありました。
古いテレビ録画か何かの映像でした。言語障害のある車いすの男性が街頭で演説をしている様子、施設での座り込みなどの直接行動を展開したという内容を覚えています。最後まで観られなかったうえに、もうタイトルがわからなくなってしまい見つかりません。しかしそのような命がけの行動があったことは私にとってかなり衝撃的な情報でした。
「生きることのはじまり」には、気になったまま謎だったその座り込みのことが、当事者の言葉で語られていたのです。
金さんが参加したのは、障害者の自殺の原因究明の申し入れに多勢で施設に向かったところ、無視されて職員たちが出て行ってしまった、そこで空っぽになった建物をそのまま占拠しバリケードを作って楯籠もったというものでした。
自力での移動の自由は無い方たちですから、もちろん介護者が一緒です。自らの首をその場に針金でくくりつけての座り込みは、トイレにさえ行かれない激しい状況となったのでした。

ずいぶん金満里さんの本の話が長くなってしまいましたが、私の感じた事がうまく伝わっているか自信がありません。こんな不充分な抜粋によって誤解を引き起こしかねませんので、ご関心を持たれた方は、ぜひこの本を手に入れて読んでいただければと思います。
私は学生時代に写真の授業の自由課題で、小平市にある武蔵野美術大学から遠くない「あさやけ作業所」という福祉施設に撮影に行きました。福祉に大きな関心があったというわけではなく、撮るべき対象がいっぱいありそうだと思ったからです。
知人がそこで職員をしていて、無知な学生を暖かく迎えてもらいました。そこは通所施設で、知的障害の方たちが洗濯バサミを組み立てたり布巾を縫ったりという軽作業を行う場所でした。
私の中では長らくそのイメージが強かったので、障害者の権利獲得、様々な運動は、健常者が障害者を代弁して行うものとしか知らなかったのです。金満里さんが活動した運動の時代は私の学生時代とは10年くらいずれているとはいえ、東京にいてそのようなことを誰からも聞きませんでした。まだ今も知らずにいることがたくさんあるのだと思います。

「生きることのはじまり」を読んで間もなく、大阪行きの日程がやってきました。
いよいよ森田さんの家を訪問するのです。
2013年1月18日、私は必要な道具一式を持って、大阪・鶴橋の駅に降り立ったのでした。

 

 

森田かずよさんとの出会い―その4・大阪へ
(2014年10月24日 私の人形制作第64回 「ときの忘れもの」より 井桁裕子)

森田さんのご実家は鶴橋にあり、ダンススタジオを経営されています。
鶴橋には大阪駅から環状線に乗って行きます。
高架上を走る電車の窓から町並みを見下ろしていると、なにやら「アートリサイクルセンター」と日よけのひさしに書かれた店が見えます。
これが私は気になったわけですが、普通の家電などを扱うリサイクルショップのようでした。
アートという言葉にこちらが過剰反応しただけですが、なんとなく横浜トリエンナーレの「アート・ビン」を連想させられました。
それはご存知「美術の為のゴミ箱」、申し込みの注意事項に「中に入れられた芸術作品をすべて廃棄処分することを保障」とあり、本当にゴミ箱なのです。
そこで集まった「失敗作」の数々を密かに大阪に運んで、この「アートリサイクルセンター」で何か正体不明なものにリサイクルしてしまうという可能性はなかろうかとくだらないことを思ったのでしたが….。
7月に始まった横浜トリエンナーレはもう会期も終盤です。
その連携プログラムとして開催中の「横浜パラトリエンナーレ」のほうでは、森田さんの出演企画が何回かありました。
私はそのイベントの日に出かけ、9月末にはトリエンナーレの方も観て来ました。
「象の鼻テラス」では森田さんと2回も会い、横浜美術館では「釜ヶ崎芸術大学」の展示もありで、大阪と横浜の混じり具合がなかなか不思議な感じでした。

(中略)

先月はそんな横浜で森田さんと会ったのでしたが、やはり作業をするにはこちらから出向かなくてはなりません。
思い起こせば鶴橋に森田さんを訪ねた一番最初は2013年の1月でした。

まだ会うのは2回目なのに、いきなりヌードモデルになってもらうというのは、なかなか急な展開でした。
しかし会える機会は限られているし、具体的に作業を始めてみるしかないと思いました。
私はスタイロフォームと石塑粘土、作業道具一式を持って行きました。
基本的には写真などで記録して帰ってから作業をするのですが、小さい立体を作る支度をして行ったのです。
素早くその場でスタイロフォームを削り石塑粘土を盛って造形するという目論みで、そんな大道芸みたいな早業ができるのかどうか、自分でも謎でした。
はっきりしているのは、複雑なねじれをもって存在する非対称な身体を、図面に起こして計画的に制作することの不可能さの方でした。
CADを使って3Dの設計図を作り3Dコピーで出力するといった最新電脳技術は、言うまでもなく私には無関係です。
それを思えばその場で立体を作って「立体スケッチ」をする方が断然現実的なのでした。

スタジオのロビーで待っていると、森田さんはお茶の支度を持ってエレベーターで降りて来てくれました。
私は、森田さんが普段の生活をどの程度自由にこなしているのかも知りませんでした。
片手でお茶セットを持ったままドアを開ける森田さんを見て、手伝わなくても大丈夫かと思ったりしました。

脱いでもらった森田さんの身体は、私のぼんやりした予想のようなものをはるかに越えた存在でした。
若干の気後れや迷いは、あまりに日常的な感情でしかなく、一瞬にして蒸発してしまいました。
しかし、その深く屈曲した体はやはり、痛々しく思えるものでした。
私の体を無理矢理このように曲げれば間違いなく命はありません。
今思うと変なことを言ったものだと思うのですが、私は「普段、普通にしていて体は痛くないのですか?」と尋ねました。
特に痛みは無く、いろいろな障害はあっても内臓などはとても健康とのことでした。
写真を撮らせてもらい、スケッチをしながら、私はまだ、その骨格も筋肉の流れも理解できずに呆然となっていました。

 

森田かずよさんとの出会い―その5・大阪へ
(2014年11月20日 私の人形制作第65回 「ときの忘れもの」より 井桁裕子 )

森田さんの身体を見てまず「痛くないのか」と心配になった私ですが、正しく人に思いやりができるようになるのは難しい事です。
では、人はともかく、自分の感覚ならば常に把握できているかといえば、これもそれほど確実なものではないと思います。
ある種の心の状況においては感じる事が抑圧され、自分で自分を壊し、苦しみに他者を巻き込んで行くことも起こります。
以前「自分がどう見えるか」を客観視したい願望からセルフポートレートの人形を作ったという、20代の終わりの頃の話を書きました。
それは一方で、自分が無意識にひどい無理をして体を壊したりする状況から脱出して、自分の状態をちゃんと意識できるようになるための始めの一歩でした。
身体には、他者からどう見られているかという問題と、自分が何を感覚しているかという問題があると思います。
外側から見える身体の問題から始まった造形は、無茶な扱いをされて壊れた人形のような自分を、心身ともに回復する道のりへと通じていたのです。
私は作品をなるべく「人形」と言うことにしているのですが、それは、そのほうがこういった経緯を忘れずにいられると考えたからです。

現在、ときの忘れものサイトで載せて頂いている私のプロフィール写真は、横から撮影されたポートレートです。
正面からの写真と違って特徴的ななで肩の猫背がよく分かり、身体性をよく捉えていると言えるかもしれません。
私の猫背はある時期はもっとはっきりしていて、立ち上がったチンパンジーのように首が突き出していました。今はかなり治ってこの程度というわけです。
猫背に気がついたのは30代になってからです。
その頃はデザインやイラストの仕事をしていました。
下を向いて手元に顔を近づけて細かい絵を描き、0.1ミリの罫線を引き、ピンセットで小さな写植をつまんで張る、といった仕事です。
日々、重い頭をなで肩の長い首で釣り竿のように支える姿勢で一日中過ごしました。
このような仕事で何年も働き、休みといえば人形を作ったりしていてちっとも休みにならない生活の中で、背中は曲がり、頭部を支える背中側の僧帽筋が発達して肩が盛り上がり、りっぱな猫背になったのです。
働けなくなって療養していた時、筋肉が減って10キロ以上も痩せたことがありました。社会復帰できるかと恐ろしかったのですが、背中が伸びて肩の筋肉が落ちたら、埋まっていた長い首が出現して別人のように「良いスタイル」になっていました。
しかし残念ながらそのどちらの写真もありません。

とても具合が悪かった頃、藁をも掴む思いで整体や治療院に通っていました。
遠くの治療院に毎日のように通った時期もありましたが、朝から来ている人は年配の女性がほとんどでした。
施術の前に、みんな腰を回して体操したり、順番に変な形の枕を首に当てながらカーペットの床に寝たりして待つことになっていました。
見ず知らずの人と並んで床で寝ていたりするわけです。
あるとき、70代半ばくらいの痩せた小さな女性が横に寝ていて、私は突然奇妙な感覚に捕われました。
横に居る人と自分の、お互いの意識を入れ替える事ができるような気がしたのです。
二つの身体を同時に感じながら横たわっているかのようだったのです。
その人の体は小さいので、視点も動く時の体の重さも私とは違います。
痛みがあるという訴えは同じでも、自分のように筋肉がよくついた体が感じる痛みとは違うと思いました。固い関節にしがみついている細い筋肉、それを覆う薄い脂肪と柔らかい皮膚、私と仕組みは同じでも様相の違う身体を、内側から感じられるように思ったのです。

その奇妙な感覚は薄れつつもずっと忘れられず、ちょっとした神秘体験のようなものとして記憶していました。
しかし、森田さんの身体と間近に接して、私はあの感覚はただの妄想で、人の身体を内面から知覚する事などまったく不可能なんだと思いました。妄想とはいえ、平面の地図で良く知っていた世界を地球儀の上に投影してみたような、画期的な妄想だったのでしょう。
出会ったばかりの森田さんは地図さえない見知らぬ街、そこに同じような空気と大地があることだけしか確認できていない別の惑星だったのでした。

 

森田かずよさんとの出会い―その6
(2014年12月20日 私の人形制作第66回 「ときの忘れもの」より 井桁裕子)

2013年1月18日、とりあえず小さい身体像を作ることだけは決めて、私は材料を携えて森田さんを訪ねました。
森田さんのご実家はビルディングになっていて、貸しスタジオを経営されています。
その日はインド舞踊のレッスンが入っていて、ちょうど人が来る時間でしたが、他の空き部屋を使うことができました。

森田さんは、自分の骨格がどのようになっているのか、解説してくれました。
しかし、聞いてもそれらが具体的にどういう状態なのかわからず、言葉だけが頭を素通りして行く感じでした。
普通は人物デッサンの修練をある程度積んで、解剖学の知識が少しあれば、何も見なくてもおおむね真実味のある人体を絵に描くことができます。脊椎を中心線として目安にとり、様々なポーズを描けるのです。
しかし、私の目の前の女性は、その基準となるべき脊椎の曲線が身体内部でどうなっているかが、まずわかりません。
その独特の形の謎に、私は惹き付けられてしまいました。

その日はさっそく、壁に片手をついて立った状態でいろいろな向きからの写真を撮影し、スケッチブックにクロッキー程度のスケッチをさせてもらいました。
描くという目的があると遠慮なく見る態勢に入れます。
モデルは全く動かないでいてもらうのがベストなのですが、同じ姿勢をじっと変えないというのは大変つらいものです。
森田さんは義足を外してしまうと左脚一本で立つことになります。
片脚で立ち続けるというのは健康な人でも疲れてしまうもので、写真撮影の短い間にも体は徐々に動いて行ってしまいます。
座った姿勢のほうが楽なのだと思いましたが、座ると脚の筋肉の緊張の具合などが見られないため、やはり立ったほうが断然いいのでした。

描く気持ちで見て初めて、森田さんの右手には指が4本しかないことが鮮明に見えてきました。その形は開きかけた百合の印象がありました。
日頃は義足で包まれている右足先はとても白く小さくて、纏足に似ているけれどあんな抑圧的な形ではないのです。
私はその足に触らせてもらいました。柔らかな、幼い子どもの足のようでした。

もどかしくなるばかりのスケッチは適当に切り上げて、私は荷物からスタイロフォームとカッターナイフを出しました。
スタイロフォームはご存知の通り建築資材として使う場合は断熱材です。
しかし、やすやすと削り出せるし、発砲スチロールと違って表面を紙ヤスリで整えたりできるので、造形材料として様々な分野で重宝されます。
私はとりあえず胴体の謎の解明に集中する事にして、腕と膝下と首は省略したトルソをその場で作ってみようと思っていました。
四角い塊の4面に鉛筆でざっくりと形を描き、ナイフで削ってはまた印をつけて削っていきます。
カッターナイフを出来うる限りの超高速で動かして、塊はみるみるうちに、なんとなく森田さんらしい形をとりはじめました。
しかし、この作業だけでいきなり正しく形が作れるわけではありません。
石粉粘土も持って来てあるので、スタイロフォームでざっくり作った上に肉付けをしていくつもりでした。
肉付けした部分も削ったり足したりして、滞在中の二日間で可能な限りの造形をして持って帰るのです。
写真だけではつかめない「立体地図」のような記憶のよりどころとなるはずでした。

ところが、しばらくの作業の後、森田さんは具合が悪そうに中断したいと言われました。
服を脱ぐには暖房の準備が不充分だったので、すっかり冷えてしまったのです。
私は自分ばかり夢中になって無理をさせてしまったと思い、申し訳ない気持ちになりました。
森田さんはつらいとも言わず、自分は血行が良くないので冷えに注意しなくてはいけないのだと静かに説明してくれました。
血流の滞った白い脚は一層白く見えました。
外にはちらちらと小雪が舞い始めていました。

一日置いて20日、再度森田さんを訪問しました。
DVDで以前発表したダンスの映像なども見せてもらい、今度はちゃんと暖かくして作業の続きをしました。
私はこの二日間の作業で、おぼろげには形を掴みかけていましたが、帰ってもっと落ち着いて丁寧に作ってみなくては、どこがわからないのかさえ判らない気がしました。
森田さんご自身も、まだ湿っている粗く脆い「立体スケッチ」を手に取って、「こうなってるんやなぁ」としげしげと見ていました。お医者さんでさえ、彼女の身体の形を理解できていない、とのことでした。

帰りの新幹線で書いた自分の日記を読み返すと、
「来る前はどうなるかわからなかったが、森田さんはすばらしい。良い作品になりそうな気がする。リツ子さんの時のように表現に悩むことなどない。ただ素直に取り組むだけで良いものになる。」と何やら幸せそうな事が書いてありました。
確かに私はこのとき、純粋な希望に満ちていました。
今思えば、なんという能天気かとあきれてしまうのですが….。

写真は、帰ってから作った陶による習作の部分写真で、座っている森田さんの背中側です。
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展覧会開催中です
(2015年09月20日 私の人形制作第75回 「ときの忘れもの」より 井桁裕子)

15日から「片脚で立つ森田かずよの肖像」展示が始まっています。
作品は時折、私の浅い思考や狭い視野を越えて、ずっと深い思いを持つ人からの共感を頂く事があります。
限られた展示期間に、そのような出会いを得ること一つひとつが作品と私にとって得難い幸運です。
いつも思う事ですが、作られたものは観た人の中でいろいろな形で完成するのだと思います。

前回の個展「加速する私たち」の開催は2012年12月でした。
制作は2011年の5月頃からで、震災・原発事故が濃く影を落とす作品となりました。
「鉄のゲージツ家・クマさん」こと篠原勝之さんが前回に引き続きご来場いただき、「ものすごい眼に見えない爆風の彫刻に続いて、今回も近未来的彫刻に度肝を抜かれた。」とTwitterで書いてくださいました。
こうして前作とのつながりで作品を観てもらえるのは嬉しいことです。
作品は時が過ぎれば制作時の動機から離れ、その時々の見え方で解釈されるものだと思うので、あの作品もただ高橋理通子さんの肖像というだけで良かったのですが、やはりそれだけには収まらないものとなっていきました。
「爆風」というのは、私がそこまではっきりと言葉にする勇気のなかった部分であって、経済原理ばかりが至上のルールとされる競争社会の中で、弱く美しい豊かなものたちが犠牲になっていくことの、その極限状況としての核の爆風、それを感じてためらいなく言葉にしてもらえたことが嬉しいです。
過去を置き去りにして走らされる、破滅へと加速して行く、そういう中でどのように理性を保ち未来を信じていくのか。
2012年の段階では、そういう「問い」を作ったその後に何を作れば答えになるのか私には判りませんでした。

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《加速する私たち》部分/写真:齊藤哲也

森田かずよさんの特別な身体の、ごく個人的で難解な謎解きが次の制作となりました。
はからずもそれは、問いに対する答えとなる巡り合わせだったと、出会いから3年の時を経て私は思いました。
今、嵐のような時代の変わり目にこの作品が展示されている事も、何か意味のあることかもしれません。
しかし、そういったことも私が今ここで思う限りの事でしかないとも思います。
作品は時を越えてより良い未来に置かれるものと信じたいし、また観る人と響き合ってその意味を深めていってほしいと心から願っています。

このような儲けにならない作品の展覧会を開催してくださる「ときの忘れもの」綿貫ご夫妻に深く感謝しております。

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《片脚で立つ森田かずよの肖像》/写真:齊藤哲也

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《片脚で立つ森田かずよの肖像》/写真:齊藤哲也

 

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森田 かずよさんと井桁 裕子さん(井桁さんFBより)

 

 

 

 

 

 


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