小島祐一が描く女性達

Posted on 2020-07-07 by nakajima

骨太な筆致がすばらしい小島祐一さんの作品。
今回はその作品群の中から、油絵をいくつかご覧ください。
フィレンツェ・ニューヨーク&木曽の女性達など、氏の描く女性をピックアップさせていただきました。
作品に添えられたエピソードも味わい深いものがありますので、ぜひどうぞ…。

1[フィレンツェの女 1996]

7[女画学生 1996]
絵を始めた頃、イタリア留学中の作品

9[ニューヨークの女 1998]
ニューヨーク アートスチューデンツリーグでの作品です。
世界中から学生やモデルが集まり、若者からお年寄りまで学び、
巣立ったアーティストからの寄附で財布に優しいスケールの大きな学校でした。
カーネギーホールの斜向かいにあり、立地も良かったです。

10[ニューヨークの女 1998]
ニューヨーク アートスチューデンツリーグでの作品です。
学校が終わると、メトロポリタン美術館や自然史博物館でスケッチしました。
年間パスを購入し、毎日閉館のメロディーを聴くまで休みなく描きまくりました。

10_2[ニューヨークの女 1998]
毎朝アパートからセントラル・パークを1時間歩いて
New York art students league に通った。
その美術学校には世界中の学生と様々なルーツを持つモデルで賑わっていた。

2

[木曽の女 2000]
木曽にて木工職人をしていた頃の作品。
真冬、かんなの研ぎ汁が砥石の上でたちまち凍り付いたのを思い出します。

3_2[職人の休息 2000]
木曽で木工職人だった頃の作品です。
刃を研ぎ木を削る日々が延々と続き、絵を満足に描けずに悶々としていました。
たとえ描いても、恥ずかしくて誰にも見せませんでした。

3[木曽の女 2001]
木曽で木工職人をしていた頃の作品。
材木屋に行って、作る家具に合わせて板を選ぶのは楽しかった。
時には原木を丸ごと購入し、さまざまな厚みに挽いた後、
軒下でそれぞれに風が通るように丁寧に積み上げ、自然乾燥させた。
埃をかぶった材木にカンナをひくと、
目が覚めるような美しい木目が現れ、いつも驚かされた。

4[木曽の女 2001]
木曽で木工職人をしていた頃の作品です。刃を研ぎ、木を削る日々に追われ、
絵描きを志したはずが道を逸れていくことに強い焦りを感じていました。
しかし今では、木材や漆、油や膠といった自然の素材と親しみ、
日本の伝統技能や文化に触れたことが、
絵描きにとって大変良い経験になったと思えます。

5[木曽の女 2001]
木曽で木工職人をしていた頃の作品です。
冬の寒さが忘れられません。
標高3000M級の中央アルプスと御嶽山に挟まれた深い谷間の最上流で、
江戸時代には中仙道の宿場町や漆芸で栄えた村に住んでいました。
伝統的建物保存地区から外れた河川敷に一軒家があり、
冬は午後3時頃に陽が山の向こうへ沈みました。
深夜には木曽駒ヶ岳からの寒気が谷を伝って降りて来るのが実感できる程
急激に冷えました。
朝になると、風呂桶の湯が厚い氷になっていました。

6[臨月 2004]
子供達が幼い頃よく言っていた。 僕が父さんを選んで生まれて来たんだよ!
最近言ってくれないなあ。

8[京の女 2003]
土方仕事をしていた頃の作品です。土曜日のクロッキーが楽しみでした。

12[桂離宮の木々 2013]
まだ絵描きを志す前、建築設計を学んでいた21歳の頃、ゼミの学外演習で桂離宮と修学院離宮を拝見した。
真赤な紅葉と建築の佇まい、その時の衝撃を決して忘れない。
いいかげんだった私が初めて「美」「伝統」に出会い、ガツンと目覚めた思い出の地。
この作品は桂川河川敷から見た桂離宮の森を43歳頃写生したものです。

13[森の生活 ウォールデン H.D.ソロー
Walden; or, Life in the Woods Henry David Thoreau]
大学4年時にこの本に出会い、ガンジーに影響を与えたソローの哲学に感銘をうけました。
会社を辞め、自転車で日本縦断の旅に出る
きっかけとなった本です。
ソローが思索にふけった丸太小屋は、
私にとっては日々移動するテントそのものでした。
1年余りの旅から帰宅した時、絵描きを志す事を堅く決意していました。

(Yuichi Kojima)


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