~ヘレン・ハイド~明治の浮世絵師となったアメリカ人女性

Posted on 2016-09-21 by nakajima

117年前の明治に来日し14年の間、日本を描き続けたアメリカ人女性浮世絵師、ヘレン・ハイド。 彼女の足跡をアメリカ在住のアーティスト大野順子Rothwell氏が紹介してくださいました。 女性ならではの視点で見つめる明治の日本がとても優しく、新鮮です。

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Helen Hyde、32 歳、1900 年

ヘレン・ハイド (Helen Hyde)1868-1919  ―明治の浮世絵師となったアメリカ人女性―

大野順子Rothwell

ヘレン・ハイドは1868 年、3 人姉妹の長女として生まれた。
父はカリフォルニア州の鉄道建設に携わり、母はニューヨーク州リマの教師だった。 母がカリフォルニアを訪れた時に父と知り合い結婚、二人は東部にしばらく住む。 ヘレンはリマの母の実家で生まれた。
3 歳の時に父の故郷、カリフォルニアに移る。

ヘレンは裕福な美術を学ぶにはとても恵まれた環境の家庭で育った。 12歳の時、父の勧めで油絵ではなく素描を習い始める。 これが後に線を重視するエッチングや版画へとヘレンを向かわせたのかもしれない。

14歳の時父が急死する。 その後、裕福な伯母の援助を受け、18歳でサンフランシスコの美術学校、California School of Design に入学、卒業後1 年間ニューヨークのアート・スチューデントーデント・リーグで油絵を学んだ。

 

ヨーロッパ (1890 年から1894 年)

22 歳から26 歳まで4 年間、ヘレンはヨーロッパに滞在した。
初めの1 年はドイツのベルリン造形芸術大学で学び、翌年パリに移った。

パリではラファエル・コランやフェリックス・レガメー(※1) に師事した。
(※1  Felix Regamey 1844-1907)

当時美術界にあったジャポニズムの波にヘレンも巻き込まれていく。 特にレガメーの影響が大きかった。
レガメーはパリのギメ美術館を作ったギメと一緒に明治9 年来日し、ギメの日本紀行文の挿絵を描いた画家だ。
彼自身も日本について“Japan in Art and Industry”という挿絵入りの本を書いた。
また”Le Japon en images”というスケッチ集も出版した。
ヘレンはレガメーから日本についていろいろ聞いて、行ってみたいと夢を膨らませたに違いない。

またパリで暮らしていたアメリカ人印象派画家、メアリー・カサットのエッチングからも強い影響を受ける。 色付きエッチングという技法に影響されたとともに、カサットの得意とした母と子の情景という題材にも影響され、のちに日本でのハイドの主な題材となる。 カサットもジャポニズムの影響を受けた画家の一人だった。

1894 年にアメリカに帰国後、銅版画家のジョセフィン・ハイド (同じ苗字だが血縁関係はない) からエッチングの基礎を学んだ。
1898 年の母の死後、ヘレンは東洋を日本へ自分の眼で見たいと日本行きを考え始めた。

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日本の聖母、1900 年

明治32 年、日本へ(1899 年から1901 年まで最初の日本滞在) 1899 年 (明治32 年)9 月、ヘレンは31 歳で来日し、この時わざわざ重いエッチング用のプレス機をアメリカから運んできた。
出発前にニューヨークの画商、ウィリアム・マクベスに送ったヘレンの手紙。

一年後には貴方に新しいもっと興味深い版画をお送りできるようにと願っています。 私の小さなお嬢さん“Little Miss”(プレス機のこと)を連れていき、日本でエッチングを制作してみます。※2 ( ※2)Helen Hide, Tim Mason and Lynn Mason, Smithsonian Institution Press, 1991

この時点ではまだこれから木版画を始めることは考えていなかった。

ジョセフィン・ハイドも同行した。
このときは6 か月滞在の予定だったがジョセフィンの帰国後もヘレンは日本に残り、結局3 年滞在した。

後にヘレンは日本の印象をこう書いている。

日本は宝石のような、思いがけない体験、夢に描いていた以上に芸術の可能性にあふれた新しい世界です。 そして日本の生活に入っていったことで私は色彩と魅力的な風変わりな面白さがもたらした無限の可能性に歓喜しました。※3 (※3) Harper’s Bazaar, January 1906

ヘレンとジョセフィンは狩野友信に日本画を学び始めた。
これは18 ケ月続いた。狩野友信はフェノロッサの良き協力者でもあった。
フェノロッサはそのころ、ボストン美術館をやめ再び日本に来ていた。

フェノロッサはヘレンと知り合い、木版画をやってはどうかと勧めた。
フェノロッサは版元の小林文七と組んで浮世絵を摺らせていた。
外国人の浮世絵絵師は初めてで売れるかもしれないと考えたとみられる。
翌年の1900 年の4 月、ヘレンは初めての木版画「日本の聖母(マドンナ)」を制作することに決めた。
ヘレンは基になる絵を小林に渡し、小林は彫師、摺師を使い伝統的な浮世絵のやり方で制作した。   4 月23 日にマクベスに手紙を書いている。

この私の新しい試みの最初の木版画を郵送します。 ・・・ まだ初めて一カ月もたっていませんが最初の木版画をあなたに見ていただいてどう思われるか、これからも続ける価値があるかお聞きしたかったのです。

マクベスからはフェノロッサには注意するようにと返事が来た。
が、その返事を受け取る前にヘレンは小林とフェロノッサとうまくいかず、決別した。

ヘレンはこの二人の商業的なやり方に腹を立てた。
二人は大量に摺った後、ヘレンの板木を断りなしに廃棄処分した。
「残りの請求書は払わない」とヘレンは書いている。
版元の小林に制作費用を払い、全部刷り上がったのち残りの費用を払うことになっていたのではないだろうか?

これはヘレンが日本の浮世絵の仕組みに慣れていなかったことにも原因がある。
西洋では普通、版画は下絵、彫り、摺と全ての段階を全一人で制作するが浮世絵は、絵師が下絵を描き、彫りと摺りはそれぞれ職人に任せられる。
普通、絵師は主板ができると校正用の摺りを見て「色差し」と呼ばれる色指定をおこなう。

色差しによって色板が作成される。
絵師により摺りについての師事がなされるのである。
そして初摺りを見て、良ければ絵師の仕事はここまでであとは摺師に任せる。

絵師であっても分業体制の一部分にすぎない。
最初の小林とフェロノッサとの仕事に懲りたヘレンは自分の浮世絵、木版画は版元にまかせるのではなく、最後まで自分でコントロールしたいと考える。
それにはまず、木版画のやり方を自分で学ばなければならない。

そこで、ちょうど1900 年来日したエミール・オルリク(チェコ出身の版画家)(※4)に木版画の技術を学ぶことにした。(※4 Emil Orlik 1870-1932)
エミール・オルリクはヨーロッパで版画を始め、浮世絵についての知識もあった。

私はヘレンが東京でチェコ人のオルリクから木版画を学んだことを以前から不思議に思っていた。

どうして日本にいるのに、わざわざ日本の職人からではなく、外国人のオルリクから?

それは、ヘレンは浮世絵の彫り師や摺師の分業作業を理解したかったけれども言葉の問題もあるので全体の流れをすぐ教えてくれる人を見つけるのは無理だったのではないだろうか。
自分自身の木版画制作を始めるため思うように職人に指図するには今すぐ制作過程をちゃんと知らねばと思ったのだろう。

そのうえで、制作を助けてくれる職人を見つけ出せば良いと考えたのではないだろうか。
日本の浮世絵の仕組みを取り入れて、自分の監視下の下で職人に彫りと摺りをまかせ、1900 年の4 月から1901 年10 月までにヘレンは木版画12、エッチング4 を制作し、それぞれ100 から250 ほど摺った、刷り上がったのちの版木は規則通りにそれ以上摺れないように割り砕いた。

日本画でも1901 年には、友信の勧めで3 月第10 回日本絵画協会展に「愛児」を出品、一等褒状を受賞している。

この年10 月にはサンフランシスコへ帰国。画廊を訪ね、展覧会も開いた。そして翌年シカゴで生涯の友となるバーサ・ジャック(※5)に会うことができた。(※5 Bertha Jaques,1863-1941 シカゴのエッチング版画家、写真家。シカゴエッチング協会設立に尽力する)
バーサもエッチング版画家でヘレンとはすでに4 年前から文通を始めていた。

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ハイドの家、1905 年

  再び日本滞在(1902 年から1910 年) 1902 年10 月に再来日したヘレンは、赤坂氷川町8 番地に家を見つけた。 この家については1908 年に訪ねて来たバーサ・ジャックが次のように書いている。

ヘレン・ハイドの住まいは赤坂にある。 そこは大使館が少しある以外は日本の家屋が残っていて、人々の生活は昔とほとんど変わっていない。 その赤坂氷川町8 番地へ行くのに、道が狭くて一貫性がなく、あちこちへ曲がるので、日本の通りに慣れていない人なら、人力車の車夫が誰かの私道を通って連れて行こうとしていると思うだろう。 両側の緑の植え込みの垣根の上には風変わりな木々や瓦屋根があるが煙突は見かけない。垣根の向こう側の興味をそそられる物が見えたらいいのにと思っていると 急に車夫は蝶番や柱の項が緑青で錆び 付いた高い木の門の前で人力車の長柄を地面に下した。 人力車あるいは車屋と呼んでいる車夫の長所は、運転手であり厩務員、さらにガイドなのだ。 車夫は門を開け,きれいな小石の敷き詰められた歩道に通してくれ た。 再び小道が続いているような気がする。 両側に苔むした石塀があり石の裂け目にはシダ、そのむこうに狭い土手があり木々の根元にもシダが群がっていた。 もし早春なら椿が赤い花をつけ始めているだろうし、もし4 月なら桜の木はピンク色に覆われていただろう。 短い歩道の突き当りに石の鳥居があり、そのうしろにも木の鳥居がある。 さらに石彫の狐が両側にあり、参拝者が神殿に向かう前に手を洗う石の水槽がある。 神殿は白っぽい色の格子戸のついた木造の小さな建物で、格子戸から中を覗くと小さな祭壇が見える。(中略) この神殿は建ってからすでに180 年以上の歳月を経ていた。 建てられた時には木々はもう成木だった。 もはや拝殿で神の注意を引くために鈴を振り鳴らされることはない。 神社から向きを変えるとミス・ハイドが内装をデザインした家がある。 これまで庭の竹塀で隠れていた。灰色のカーブした瓦屋根の、時を経たのと天候のために落ち着いた自然の色になった木造二階建ての家だ。 ドアはないように見える。 鳥籠のためのような縦の棒しかない。 日本の所作として車夫が手を打ち鳴らすこと 期待するかもしれないが、彼は落ち着いてボタンを押した。 外国の便利さがもうここにも浸透しているのだ。 間髪を入れず棒が左右に開き、日本人形のようなものが立っていた。 おもちゃかも知れないと思っているうちに、それはとても低く お辞儀をした。 現実には小さい女中のトヨさんだった。 柔らかい声で「お入りなさいませ」と言った。(※6) (※6 An Artist’s Home in Japan, Bertha Jaques, The Craftsman, Nov, 1908)

ヘレンの家は日本式だったが、内部は手をかけて住みやすくしていた。畳の上に絨毯を敷きテーブルや椅子を置いた。 家具は趣味の良い物を集め、時には自分でデザインして、日本の職人に作ってもらった。 漆や竹の家具も揃えた。蓮の花のデザインの行灯、大きな火鉢もあった。 一階には居間、ダイニングルームなどでアトリエは二階にあった。 バーサ・ジャックはアトリエの様子も書いている。

この魅力的な家の中で最も興味深いのは二階のアトリエだ。 そこで小さな女中さんからお茶をふるまわれるに違いない。 ここでは物事が達成されたプロフェッショナルの雰囲気をすぐ感じるだろう。 簡潔さがある。 余分なものは置いていない。 エッチングに使うプレス機はもちろんある。 筆、パレット、油絵具と水彩絵具。 そして版画に使った彫られた木板が積み重ねられている。 運が良ければ日本人摺師の村田さんに会える。彼は周りに絵の具、たくさんの筆、そして重ねた紙を置いて日本人らしく床に座る。 ミス・ハイドの監修のもとで彼は版の最後まで摺るのだ。 ほとんどのアトリエとは違って、茶色の壁には絵は掛かっていない。 床の間に生け花の後ろに掛物があるだけだ。 部屋の二つの側はガラス戸を通して外につながるような感じだ。 植物でいっぱいの小さなバルコニーからは木々の間に神社の瓦屋根がみえる。 この家そのものか、それとも木々と庭の見えるそこからの見晴らしのどちらがもっと魅力的なのだろう?(※7) (※7 An Artist’s Home in Japan, Bertha Jaques, The Craftsman, Nov, 1908)

ヘレンのやりたいことははっきりしていた。
浮世絵、つまり木版画制作だ。それには日本ほど職人が揃っているところは他にはない。

村田Shohiro、1905 年

村田Shohiro、1905 年

ヘレンが雇ったのは村田Shohiro だった。
三代目広重の摺師だった。
このあと11 年間ヘレンの制作を手伝うようになる。
彫り師は松本と言い、この二人の名は「かたこと」に摺られている。

ヘレンは時には20 から30 ものスケッチをし、その中から構図を決め墨で薄紙に描いて職人に渡す。
しかしヘレンは特に村田さんが勝手に色を変えないよう、すべてを指図して自分の思うように摺ってくれるよう気を配っていた。
ヘレンは日本式の浮世絵制作の方法を変えるのではなく、そのやり方を取り入れ職人に密着して一緒に制作することで仕事は順調に進んだ。
そして安定した質を保つことができるようになった。

かたこと、1908 年

かたこと、1908 年

この二度目の滞在の8 年間はヘレンの最も脂の乗り切った時期と言える。 代表作、「追っかけっこ」「鏡」「竹垣」など制作された。

この家にヘレンは女中のトヨさんと住み、車夫を雇っていた。
そしてお花を生けに週一回通うホンド(ホンドウ?)さんがいた。
彼女は弟子を伴ってやってきて家中に花を生けた。
この家には素晴らしい庭園があった。
ヘレンがカリフォルニアからわざわざ持ってきた黄色いプリムラ(cowslips)が咲いていた。

ヘレンは午前中は制作に没頭し、午後には出かけたりまた訪問客を受けたりと社交生活も楽しんだ。
個人的な生活面でも日本を楽しんでいた。

家ではよく着物を着た。
自分の紋として「鳩野」というのを着物に刺繍させたりしていた。
また集めた着物や帯などをモデルに着せたりした。
1908 年に制作した「かたこと」はしゃべり始めた幼子に語り掛ける母の姿を描いている。
背景には菖蒲と藤の花のふすま、灰色、茶色、全体にはベージュの穏やかな色使いだ。 「かたこと」1909 年、シアトルの「アラスカ=ユコン=パシフィック」展で金賞受賞。
サンフランシスコでは「かたこと」は完売した。

シカゴでも作品を発表したが大成功を収めた。 国際的にも次第に認められるようになっていき、ロンドン、ボストン、シカゴの画商たちを通じて作品が売れ、最も多作の時期を迎えた。

ヘレンが好んで題材としたのは母と子だった。家庭内の姿、あるいは戸外での母子。多くは体を洗ってもらったり抱かれたりしている、母の保護の下にある子供たちの姿だった。

それは母と子の親密な姿を現している。前にも述べたがパリで勉強中のヘレンはメアリー・カサットから影響を受けたが、題材においてもこの母と子というテーマでもカサットに通じるものがある。

The Bath、1905 年

The Bath、1905 年

また働いている女性も描いた。
1907 年の「家路」には薪らしきものを背負った女性が帰っていく様子が書かれている。子供たちの遊ぶ姿もよく描かれた。

ヘレンの描く世界にはほとんど男性の姿が登場しない。 子供の情景には男女どちらも描かれているが、大人を描いたものでは、女性だけの世界が中心となっている。

ヘレンは1913 年に日本人の女医さんと一緒に夏を過ごした時、「私たち女性は男性は好きですが。必要ではありません。子供を作る以外は女性にできないことは何もありませんから。」と言われたという。
そして続けて冗談で「男性に何かしてもらうために また役に立つと思わせるために、女性はできることでもできないふりをするんです。」と言う のを聞いた。(※8)
(※8  Helen Hyde, American Printmaker, Joan M. Jensen 1998)

ハイドは男性に頼ることはなかった。
何もできないというふりはしなかった。画商にあてた手紙は何事も自分でこなしていくという自信を感じさせる。
女性として独立して生計を立てたいと思っていた。
制作した版画は一つにつき200 枚以上は摺らなかったが、一枚 2 ドルから15 ドルで売り、1914 年までには16,000 枚の売り上げがあったと推定される。(※9)
(※9 推定では1910 年$2=$51,$15=$385 別の推定によると1913 年$2=48,$15=$360)
それは一人で版画家として日本で生活していくには十分の収入だった。

バーサ・ジャックによると、ヘレンは制作したエッチングや版画を「自分の子供たち」と呼んでいた。ヘレンからの手紙には次のように書かれていた。

 

考えてみて、子供たちはパリで素敵なお茶会に招かれ、どの子も帰ってこなかったのよ。フランス人が日本の子供たちをとても好きだなんて信じられる? (版画が完売されたということ) やれやれ、忙しい日々だこと!今ちょうど二つの新しい版画が出来上がったの。 人々がどう思うか知りたいわ。 彼らは明後日ボストンに発ちます。 彼らはおかしく見えるし変だけど彼らの母としてこれから彼らがどう育っていくかは分からないわ。 でもこの素晴らしい子供たちがいる。 この子たちの前で私はびっくりしています。(※10) (※10 Helen Hide and her work, Bertha E. Jaques, Chicago Libby Company Printers, 1922)

 

ハイドの家の室内、1905 年

ハイドの家の室内、1905 年

メキシコへ (1911 年)

ヘレンは癌に侵されているのが分かり1910 年 帰国し サンフランシスコで手術を受け、療養のため1 年間 暖かなメキシコへ移った。 そこでも鮮やかな色彩、通りの人々などを描く。

日本最後の滞在(1912 年から1914 年)

東京赤坂の家に戻ったヘレンは新しい日本の題材とともにメキシコも題材にした。 村田さんは相変わらず摺師として来てくれた。 ハイドの日本の生活のスタイルと制作方法 はこの最後の滞在期間中、いつも通り再開される。

アメリカの美術雑誌にはヘレンの生活がこう紹介された。
彼女は毎朝9 時にきちんと仕事を始める。
正午まで誰も中断することを許さない。
もし承認されるなら邪魔にならぬようどこかに座って待たねばならない。(※11) (※11 Gertrude Emerson, The American Magazine of Art, September, 1916)

しかし、健康上の問題もあり疲れやすくなって、いらいらする日も増えた。
日本の近代化も進み、絵にしたい風景が失われていくと感じた。
子供も着物より洋服姿が見られるようなっていった。
次第に日本への興味を失い、幻滅を感じるようになっていった。
1914 年10 月、ヘレンは東京の家をたたみ、帰国することに決めた。
日本の滞在年数は合わせると14 年に及んでいた。

晩年(1914 年から1919 年)病身のヘレンは妹メイベルの家族と一緒に住みたいと思い、シカゴに帰ってきた。
それからも数々の展覧会に出品しサンフランシスコでは個展も開く。
第一次世界大 戦のために赤十字のポスターも制作する。
メイベル一家がカリフォルニアのパサディナに移るとヘレンも一緒に移った。
そしてそこで1919 年5 月13 日に亡くなった。

ヘレンの手紙や使っていた版画の道具はカリフォルニア歴史協会に保存されている。

日本では1996 年、横浜美術館で「アジアの眼 外国人の浮世絵師たち」展、
および2014 年、千葉市美術館で「浮世絵に描かれた子供たち」という企画展でヘレンの作品が紹介された。

エッチング・プレスとハイド、1915 年

エッチング・プレスとハイド、1915 年





大野順子Rothwell氏は、明治を描いたロバート・ブルーム研究でも著名な方ですが、 先月、氏からメールをいただいた折りに、 大野さん自身でリサーチしまとめあげた、ヘレン・ハイドに関するこの記録を知る事になりました。 ぜひ当ギャラリーでも紹介させていただきたいというオファーを 快く受け入れてくださったことに深く感謝いたします。 ヘレン・ハイド の足跡を辿るすばらしい労作、ありがとうございました。

わたしも、ヘレン・ハイドの作品を探してみましたので、
参考に紹介させていただきます。
(中嶋)

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明治の日本を紹介したロバート・ブルームの紹介コンテンツもございます。 ロバート・ブルーム -明治に残る日本の江戸情緒を描く- https://attakagallery.jp/robertfrederickblum/ 明治を描いたロバート・ブルーム”日本での日々” https://attakagallery.jp/blum/

これらも、大野順子Rothwellさんの著作がベースになっております。 どうぞご覧ください。

そして、アーティストとしてのJunko Ono Rothwell氏の作品はこちらをご覧ください。 https://attakagallery.jp/junko-ono-rothwell/ ・ ・ ・ ・ ・


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